海のレシピ project

Miura

海と海のある風景を愛するものたち

[神奈川 三浦半島]

2022.12.28 UP

海のそばで暮らすと、その先に見える土地、さらには外国にまで思いを馳せてしまうのかもしれない。三浦半島が舞台の小説『港、モンテビデオ』で描かれる観音埼灯台。地理的要因と近代化する日本の歴史とが混ざり合った建造物であり、現在も役割を果たしながらシンボルとして佇んでいる。登った先に見えたのは世界を行き来する船と、果てなく広がる海だった。

トピックス

日本ではじめて海を照らした西洋式灯台

海洋交通を守る横須賀海上保安部

神奈川県、横須賀市。三浦半島の東端に、日本ではじめて海へ光を放った西洋式灯台「観音埼灯台(かんのんさきとうだい)」がある。2回の地震によって建て直され、現在は三代目。しかし、それも1925年のことであるから、100年近くも横須賀港を見守っていることとなる。今回は、灯台がもつ役割について、そして街のシンボルとしての在り方について、灯台の保全管理を行う横須賀海上保安部・交通課の川道雅大さん、池田登さんに話を伺った。

潮風に強い木々が色濃く茂り、まるで原生林のようである。頭上を舞うトンビの鳴き声を耳にしながら登り道を踏み締めていくと、突然パッと視界が開けた。八角形の白い屋根に心が浮き上がる。
「全国に無数にある灯台のなかでも、実際に内部を登って見学できるのは16基だけです。さらに、ここ観音埼灯台のように資料展示室を備えている場所は、数えるほどしかありません。訪れやすい首都圏に位置していることも相まって、地元の方はもちろん、遠方から来られる方も多いです」と話すのは池田さん。資料展示室では、日本で最も古い西洋式灯台の貴重な資料や道具の数々を目にすることができる。

時は江戸時代末期。日本はペリーの来航を機に、開国へ駒を進めていた。その第一歩となったのが、1866年(慶応2年)に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国と結んだ江戸条約。そのなかには外国交易のために西洋式灯台を建てるべし、との記載が含まれていた。その際に白羽の矢が立ったのが、当時、製鉄所をつくるために日本を訪れていた、フランス人技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニー。彼の指揮のもとで64,600個に及ぶレンガが焼かれ、観音埼灯台が誕生する。1869年2月11日のことである。

「それまでも日本には『灯明台(とうみょうだい)』というものがありました。しかし、小屋の中で木を燃やす簡易的なもので、遠くまで灯りを伝えることはできません。一方で西洋式灯台の大きな特徴は、フレネル式レンズ※を用いること。小さい電球ひとつでも強い光を出せる、エコロジーな仕組みなんです。また、初代の模型を見てもらうと、四角い洋館に煙突のように灯台がくっついているのがわかります。これは灯台守が住み込みで働いていたため。当時の灯台守は灯りを付けたり消したりということだけでなく、レンズを回転させる装置を2時間置きに巻き上げたり、汽笛を吹き、船との交信をする。レンズを磨き、油をつぎ差す。技術も体力も必要な仕事でした。平成初期ごろからモーターで回転させるように変化していきましたが、それまでは灯台守という職業が存在し続けていました」(川道さん)

※フランスの物理学者であり土木技師だったオーギュスタン・ジャン・フレネルが発明したレンズ。異種のレンズを組み合わせることで、巨大なレンズと同等の強い光を効率よく投射できることを示し、灯台の発展に大きく貢献した。

観音埼灯台には「第四等群閃光フレネルレンズ」が採用されている

灯台の基本的な役割は、船が安全かつ効率的に航行できるようサポートし、海難を防止すること。船の操船者は灯台の灯りによって現在地を知ることができる。「投射はおよそ日没から日の出までの暗い時間帯。観音埼灯台では、35km(19海里)先まで光が届きます。この明るさはまぶしすぎてもだめで、安全に船の舵がとれる程度のものに定められています。また、各灯台によって光り方や色が決められているので、それを海図とともに確認することによって、どの位置にいるか正確に把握することができます」(川道さん)

観音埼灯台がある位置は、国内でも有数の船の密集エリア。中東諸国から原油を運んでくるタンカー。地元の漁船。車などを運ぶ運搬船、貨物船と、あらゆる種類の船が、日に約500隻も行き来する。灯台の踊り場から観察していると、縦横無尽に走るのではなく、決まったルートを進んでいくのが見てとれる。そこにはこんなルールがあった。

「観音崎と対岸の富津岬のあいだは、わずか7kmしかありません。しかも、広い浅瀬も広がっていて、避けなければ船底が当たってしまう。なので通ってよい航路が決められています。船というのは、止まるのがとっても遅い乗り物。指示を出してから止まるまでに何百メートル、サイズによっては1km近くかかることもあります。この狭い海の道を事故なく通ってもらうために、灯台のほかにも、海の道しるべである灯浮標(とうふひょう)や、現場で直接会場交通ルールの指導等を行う航路哨戒艦(しょうかいせん)など事故を最小限に抑えるために、さまざまな手が用意されています」(池田さん)
昔からさまざまな工夫が凝らされてきたことがよくわかる。私たちが普段歩く道路に交通ルールがあるように、海には海の交通ルールがあるのだ。

どこかから来て、どこかへ行く。それは船が行き交う港で、日々繰り返されている光景。そこに佇む灯台は、船乗りの平安に必要不可欠なものであり、港町になじむように存在する美しい建造物でもある。船に灯りを照らし続ける観音埼灯台の眼には、どんな歴史や人生が映ってきたのだろうか。その景色を覗いてみたくなった。

お話を伺ったひと

横須賀海上保安部 交通課
川道雅大さん(左)
北海道生まれ。安全対策係長/地域海難防止対策官として航路標識の保守、海難防止等の任務にあたっている。

池田登さん(右)
山梨県生まれ。航路哨戒船などの巡視船乗組員として約30年、海上交通、治安を守る任務にあたっている。

文:峰 典子
写真:高村瑞穂

インフォメーション

観音埼灯台
日本の灯台50選に選ばれ、全国的にもめずらしい資料展示室を持つ登れる灯台。海沿いを散策しながら15分ほどで観音崎公園内の横須賀美術館へも移動できる。

神奈川県横須賀市鴨居4丁目1187
京急浦賀駅からバス「観音崎行」終点下車、徒歩10分
JR横須賀駅からバス「観音崎行」終点下車、徒歩10分
https://www.tokokai.org/tourlight/tourlight05/

海と灯台プロジェクト
およそ3000基ある日本の灯台。そのなかには近現代史において歴史的価値が高いとされる明治期のものや、海洋文化資産として地域と一体となって活用する可能性があるものが数多く存在している。
「海と灯台プロジェクト」は灯台の存在意義について考え、灯台を中心に地域の海の記憶を掘り起こして地域と地域、そして日本と世界をつなぎ、異分野・異業種との連携も含めて新しい海洋体験を創造していくプロジェクト。「日本財団 海と日本プロジェクト」の一環として実施されている。
https://toudai.uminohi.jp