海のレシピ project

Osaka

かき船文化の記憶を探して

[大阪府 大阪市]

2023.05.28 UP

『抄本 おむすびの味』(1954年/創元社)で知られる大阪出身の随筆家・岡部伊都子が、日常の手料理と自身の思い出を軽快な言葉で紡いだ『伊都子の食卓』。当時の大阪に漂った、風情ある描写に引き寄せられて繁華街・道頓堀へ。ここで巡り合った“大阪のおっちゃん”が伝えてくれたのは、かき船浮かぶ華やいだ道頓堀川の歴史文化の色濃い記憶だった。

トピックス

道頓堀 いまむかし

吉里忠史さんインタビュー

--そのころの道頓堀川の川水は、まだ美しかったように思う。(中略)川の岸には屋形船がいくつもつながれていて、その中のいくつかは、かき舟であった。--

ものがたりで紹介した『伊都子の食卓』の「かきの冬」のなかで、著者である岡部伊都子はこのように当時の思い出を綴っている。
「かき船」浮かぶ川沿いはどんな風景を見せていたのか、いまや外国人観光客であふれる道頓堀の歴史と文化について、“道頓堀についてもっとも詳しい”と自他ともに認める人物に会いに大阪へと足を伸ばした。

道頓堀商店会の現会長から紹介を受けたのが、吉里忠史さん。道頓堀の中心エリアにあるうどん店「道頓堀 今井」のすぐ横にある路地に、大正・昭和の道頓堀と法善寺横丁へタイムスリップしたような感覚にさせてくれるイラストなどを展示した「浮世小路」の、復元プロジェクトリーダーとして活動を行っている人物だ。

じっくりと見れば見るほど味わい深い場所。細かなところも見てほしい。


お話を伺うため、浮世小路から徒歩数分の場所にある吉里さんのなじみの喫茶店へ。席に通され何気なく座ったところで「そこ、藤山寛美さんがよう座ってはった席やで」とひと言。慌てて腰を浮かせたときにニヤリとした吉里さんがどのような人物か、取材前ながらも感じるものがあった。
※藤山寛美(1929-1990):昭和の上方喜劇界を代表する役者。松竹新喜劇のスターとして活躍した。

さて…と、書類が詰まったバッグからひとつひとつ取り出して見せてくれたなかには、栄華を迎えた道頓堀のきらびやかで風情ある町の写真と資料がたくさん。

挿絵画家としても活躍していた吉里さんの絵も圧巻。


ここでまずは、道頓堀の成り立ちを振り返ることにする。
道頓堀の“道頓”とは人物名である。大坂城の築城工事に従事した安井道頓は、恩賞として現在の道頓堀一帯を豊臣秀吉から与えられた。1612年から荒地の開拓に着手するのだが、無念にも大坂夏の陣で命を落としてしまう。工事は従弟の道卜(どうぼく)に引継がれ、1615年に運河が完成。そして道頓の功績を称えて名付けられたのが「道頓堀」だ。

1626年頃には南船場にあった芝居小屋をこの地に移転させたことで芝居町として発展し、芝居茶屋や花街ができてにぎわいを見せ始めた。当時芝居小屋は、「道頓堀五座」と呼ばれた「浪花座」「中座」「角座」「朝日座」「弁天座」を中心に、日本最大の劇場街として現在にも通ずる演芸文化を担った。
1999年の中座の閉館で「五座」は姿を消すことになったが、関西発の洋式劇場として誕生した松竹座は2023年で開館100周年を迎え、紡がれてきた文化をいまに伝えている。

吉里さん手描きの調査資料(左)と、かつて存在した橋の番付表(右)


「川幅も広くていいでしょ。道頓堀はこんなに広かったんや。こんないいもん造ってくれたんやね、道頓さん」

吉里さんは30代半ばから生まれ育った道頓堀の歴史を紐解き、この地の調査と資料の収集を続けてきたとのことで、膨大な数の写真と文書がその年月を物語っている。さまざまなプロジェクトの資料や記念碑の修繕に協力した記録などもまとめられており、町に対する吉里さんの熱い想いが伝わってくる。

「これほど素晴らしい町並みが本当に存在していたということを知ってほしくて、いろいろと勉強をしてきたんやな」

「こんなんええでしょ、僕の宝物やねん」と見せてくれたのは、歴代グリコの看板の写真たち。

女給が接客するカフェーの文化も花開いた大正時代。キャバレーやジャズスポットにも人々が集った。


今回の目的でもあった「かき船」についても、幼少の頃のお話を伺うことができた。

「ここらの橋にあったかき船なんて、予約しないと入られへんかったよ。きちっとした料理を出すところは、料亭並みに値段が高かったの。なかにきちんと芸妓さんがいてね。でも僕らはそこに行って『おっちゃん、串3本!』と言うと、串刺しのカキをジャリ銭で買わせてくれた。そういう船もあったなぁ」

カキの養殖は広島が起源で、草津村(のちの草津町、現在は広島市)の小西屋五郎八らが船で諸港へ売り歩き、1688年ごろからは大阪にも販路を広げていった。そして1708年、道頓堀より北に位置する船場や上町一帯が延焼する大火事があり、その際にかき船業者が鎮火作業などをおこなったことが機となって大阪での独占販売の権利を得たそうだ。以降、大阪湾につながるいくつもの川の上でかき船が操業されるようになっていき、大正10年(1921年)には、80隻近くが営業していたという調査記録もある。

そして時代は昭和初期から戦中・戦後へ。新しい運送手段が発達してきたこともあり、カキの輸送・販売からカキ料理の提供へと機能が変化していったそうだ。
1938年生まれの吉里さんと、1923年生まれの岡部伊都子はほぼ同時代の道頓堀を見ており、カキ料理が浸透していたかき船が思い出されたのだろう。

戦後は最盛期のようには戻らなかったかき船の文化。道頓堀の改修工事のために立ち退き交渉もあり1967年にはほぼ消滅してしまうのだが、実際の光景を知るお話はなんとも貴重だ。
※現在も1920年創業の「かき広」だけが土佐堀川上で営業を続けている。

続けて「道頓堀の川幅は広くて、そこにボートが20艇くらいあってね。よく彼女を乗せてデートをしたよ。あと、川向いの料亭の料理人だった友達があるとき『吉里、20時に来い』というのでボートを借りてその料亭のところへ行くと、ちょうど芸妓のお姉さま方が着替えているわけ……」と笑い、若いころの思い出もネタと化している吉里さんの大阪人らしさに、こちらも思わず笑ってしまう。

建築物も人々の営みも大きく変化した今あらためて、長年にわたって道頓堀を見聞きし歩き、身を置いてきた吉里さんに、この先どのような町になってほしいかを尋ねてみた。

「むかしの面影を、少しでも思い起こさせるような町並みに変えていきたい、かな。いまは訪れる日本人も少なくなってしまった。町も分散してどんどんと新しいほうへ行こうとしているけど、少しだけでも面影を取り戻したいね。そうやって夢を語っていないとね」

慎重に選びながら伝えてくれた言葉をあとに川沿いを歩くと、心に焼き付いたあの洒落た時代へ飛んでみたい気持ちになった。
夜の道頓堀がより一層、そんな気にさせるのだった。


文:村田麻実
写真:望月小夜加


<参考文献>
片上広子「近世から近代における広島カキ船営業の地域的展開」(歴史地理学会)
「オオサカにぎわい発見」デジタル版
道頓堀年表(道頓堀商店会)

お話を伺ったひと

吉里忠史さん
1938年大阪府生まれ。浮世小路復元プロジェクトリーダー。元挿絵画家、テクニカルイラストレーターであり演芸演出家。これまでプロデュースしたイベント、テレビ番組の製作・企画は多岐にわたる。ミナミの歴史文化に精通し、番組の支援や協力も多数。著書に『飛田百番―遊郭の残照』(創元社)がある。

インフォメーション

浮世小路

住所:大阪市中央区道頓堀1-7